サビーカス

 20世紀、カルロス・モントーヤとともにフラメンコギターを世界に知らしめ、ギターソロを確立した巨匠。  スペイン北部のパンプローナ生まれ で,主な舞台は米大陸と、フラメンコの中心地アンダルシアとは縁が薄く、それでも殆どすべてのフラメンコギタリストに 影響を与えた天才、怪物。


 そんな彼が、1973年来日し、学生だった私は新宿の厚生年金ホールに,心を躍らせて行きました。 61歳というには、やや よぼよぼとした足取りの彼は、なんとアンコールを含め20曲近くをレコードと同じ音と更に優れた表現力で弾いたのです。  それまでパコ・デ・ルシアなど何人かの一流ギタリストが来ましたが、こんな音、表現力、完成度、曲数は見たことが ありませんでした。  これは、かなり余裕があるという事です。曲の合間に調弦のために次々と弾くパッセージも、初めて聞く夢のような美しさで、 底が知れん、怪物だ、そんな感じがしました。  終演後、楽屋の裏で待っていた私は、夢中で サビーカスに、「ピカード(スケール)は2本指?それとも3本指ですか?」とつたないスペイン語で聞きました(こんな質問 しか出来なかった)。  彼は「Dos dedos? Tres dedos?」と、身振りで両方出来ると答えました。
 と、まぁ、それだけの事なんですが、握手した彼の手の感触、爪に塗ったマニキュアの色、声、態度など昨日のことのよう に覚えています。他に有名なギタリストやアーティストにも会ったし、教わった事もあるけれど、なぜか一番強烈なのは、 サビーカスの想い出です。


 パコ・デ・ルシアの登場以降、サビーカスは(特にスペインでは)ともすれば過去の人とされ、またより伝統的な名手、 ニーニョ・リカルドやディエゴ・デル・ガストールほどの尊敬を受けているとは言えませんでした。 それでも私は、あれ ほどの怪物ギタリストは知りません。 真似のできない力強く艶のある音に加え、音楽をコントロールするレベルが他の人 と全く異なるため、彼の手にかかると、同じ音符が全然違う効果をもった音になるのです。 だから、 他人が彼の曲を弾くと、大抵つまらなく聞こえます。 また、華やかさに隠れて目立ちませんが、彼のギターの真の偉大さは、 フラメンコの歌、踊りなど全てを表現していることにあるのではないか、と最近感じるようになりました。


 そして、あの自己中心的なオーラ。 ギター演奏上達の秘訣を訊かれると、「わからないね、弾けるのが当たり前だから。 弟に教える時も、弾けない理由が理解できないから、どう教えていいかわかんないんだ。」という神経(一回言ってみたい)。
 しかし本当の彼は、いつもいつもギターを弾いていたといいます。 また、親しかったギタリストによると、「強く弾こう とか速く弾こうとか思ったら音楽にならない」とか「音楽に集中するために、運指など技術はなるべく簡単に」などと、とて もマトモな助言をしていたようです。 もっとも、これは絶世の美女が「女は中身よ」とか「面食いってバカ」とか言うよう なもので、真理ではあっても、なにか素直に受け取れないような気がしないでもありません。


 10歳の時マドリードで半ズボンでデビュー(天才の定番)し、名バイラオーラ、カルメン・アマーヤを見出した彼は、その 愛人兼共演者として、市民戦争(1936〜39)を機にスペインを出国、1940年代を中心に米大陸を公演し続け、大きな名声を得ました。 「路傍の石でさえ私の名を知っていた」という名セリフを残しています。 1945年、カルメン(一座)と別れ、メキシコにしばらく住んだ後、1950年代にニューヨークに拠点を移し、以後、60年代 からスペインに一時帰国するようになりましたが、居を移すことはありませんでした。
生涯で50枚以上のLPを吹き込んだというこの大ギタリストは、 1989年最後となったカーネギーホールでのコンサートを行った翌1990年4月、ニューヨークで脳梗塞のため死亡、故郷パンプローナ でナバーラ州政府による盛大な葬儀が行われ、先年その栄誉を称えて彼の名をつけた広場ができました。


 1950年代初頭、故国を離れて20年近かった彼は、その存在を母国スペイン(と世界)に強烈に知らしめた歴史的アルバム 「フラメンコ・プーロ」を、米エレクトラで録音しました。 この時使用されたギターがあります。 先年修理の際、採寸 されたこのギターは1951年作のマルセロ・バルベロで、表面板裏の献辞から、当時ニューヨークにいたカルロス・モントーヤ の注文(!)で作られ、サビーカスの手に渡ったもののようです。
 この楽器は、私のフラメンコギターの原点になっています。 ソロを活動の中心にしていたタッチの強いモントーヤの好みか、 弦長660mmと長く、またバルベロが晩年採用したブリッジ周辺の強化策もなされた、かなり強力な楽器です。その音色は、 バルベロの工夫もあってモントーヤ好みの野生的なものになっていて、このアルバムに新鮮な個性を与えています。
 実はこの時サビーカスは、レコード会社を信用しなかったためか、報酬についてレコード売上に比例したロイヤリティーで はなく、全額前払いを条件に、LP数枚分の録音をしました。 この為、エレクトラはマスターテープのコピーを 他社に売却することが容易になり、イスパボックス、コロムビアなど複数のレーベルから様々なアルバムが発売 されることとなりました。 サビーカスの受け取った対価は1000ドルと言われ、当時としてもとても安かったようにも思われ ますが、一方で、質の高い多くのアルバムが同時に世に出たことが結果的にまたとないPR策になって、彼の世界的名声が 確立されたことも事実で、人間何が幸いするかわからないものです。
  因みに楽譜 を読めなかったサビーカスは、後年、この楽器を自分の曲を採譜してくれた人物に譲ってしまい、実はあまり楽器には拘らなか ったとも伝えられます。


 来日した際、インタビューでサビーカスは(年齢を5歳,一説には10歳若く逆サバ読んだ上)、アメリカに何十年暮ら しても英語は殆ど知らないし必要ない、と言っていました。  またどうせホラだろうと、彼を知るアメリカ人に後で問い合わせたところ、本当だったそうです。 いやはや。


(追記)
2005年11月、パンプローナにある、サビーカス広場(Plaza de guitarrista Sabicas)とサビーカスの墓を訪ねました。
墓地の管理事務所で、サビーカスの本名(Agustin Castellon Campos)を言うと、すぐ「ああ、サビーカスね!」と場所を教え てくれた上、サビーカスがなぜアメリカに行ったかなど、面白い話を教えてくれました。 さすが郷土の偉人(!)。  当日は、「諸聖人の祝日」で、多くのヒターノが 墓参(墓前で大きなろうそくを燃やす)をしていましたが、現在パンプローナには身寄りがないというサビーカスの墓前には 特に何もなく、やや寂れた感じでした。
 広場も墓地も、 かなり道に迷ったけれど、記憶に残る1日です。